あれは二十代後半の、蒸し暑い夏の朝のことでした。いつものように出勤前の準備で洗面台の鏡に向かい、寝癖を直そうと髪を濡らしてドライヤーをかけていた時です。何気なく前髪をかき上げた瞬間、心臓がドクンと大きく跳ねるのを感じました。見慣れたはずの自分のおでこが、記憶の中にあるそれよりも明らかに広くなっているように見えたのです。最初は「気のせいだ、昨日飲みすぎて顔がむくんでいるだけだ」と自分に言い聞かせ、必死に前髪を下ろして見なかったことにしようとしました。しかし、一度芽生えた疑念はそう簡単には消えません。その日から、私は鏡を見るたびに恐怖を感じるようになり、薄毛という現実と向き合わざるを得なくなりました。私が最初に感じた違和感は、実は「抜け毛の量」ではありませんでした。多くの人が「枕元の抜け毛が増えた」ことをサインとして挙げますが、私の場合は「髪質の変化」が最初の兆候でした。学生時代は硬くて太く、美容師さん泣かせと言われるほど剛毛だった私の髪が、いつの間にか柔らかく、猫っ毛のようになっていたのです。ワックスをつけてもすぐにペタンと潰れてしまい、以前のように髪を立たせることができなくなっていました。「年齢のせいで髪質が変わったのかな」と軽く考えていましたが、それは毛根が弱り、髪を太く育てる力が失われつつある「軟毛化」という現象だったのです。太い髪が細くなるだけで、本数は変わっていなくても全体のボリュームは激減し、地肌が透けやすくなります。これこそが、AGA(男性型脱毛症)が忍び寄る静かな足音でした。さらに決定打となったのは、頭皮の「違和感」でした。その頃、仕事のストレスも重なっていたせいか、頭皮が常に脂っぽく、夕方になると指先がテカるほどの皮脂が出ていました。そして、時折襲ってくる頭皮のむず痒さと、ピリピリとした痛みにも似た感覚。無意識に頭を掻いてしまうことが増え、爪の間にはフケのようなものが挟まるようになりました。これらは頭皮環境が悪化し、炎症を起こしているサインであり、脱毛を引き起こす準備が整ってしまっている状態を示していました。健康な土壌でなければ作物が育たないように、荒れた頭皮では健康な髪は育ちません。この頭皮トラブルこそが、本格的なハゲ始めの狼煙だったのです。極めつけは、久しぶりに会った友人の何気ない一言でした。「お前、なんかおでこ広くなった?」悪気のないその言葉は、鋭利な刃物のように私の心をえぐりました。他人の目は残酷なほど正直です。自分では毎日見ているからこそ気づかない(あるいは気づかないふりをしている)微細な変化も、たまに会う人には一目瞭然なのです。この時になってようやく、私は自分が「ハゲ始めている」という事実を認めざるを得ませんでした。そこからの行動は早かったです。ネットで検索し、専門クリニックの予約を取りました。もしあの時、鏡の前での違和感を無視し続けていたら、今頃私の頭はどうなっていたか分かりません。